牧野 ヒデミの創作物語 言葉の数と言葉の音符

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絵画について思った事

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夏も、終わりです。

今年の夏、私が見て驚いた事は、「カラスは蝉を食べる」という事です。蝉をクチバシでくわえたカラスが、私に近づいて来ました。

自慢げに。きっと街中で獲物を捕らえるのが大変だからでしょうね。

田舎の街中にはカラス、あんまりいないんですよねー。


自然の中の山々を見て、真緑に塗りたくった、小学校の時の美術の時間を思い出しました。


「絵画と空間」

生きる絵画の理解者もアーティスト

〜時には絵を飾る。

絵画について思った事。



~ただ歩くこと、それは無いものではない。あるところと探究心。創造とイメージは
発見と足し算~

鏡と自分。向き合う事は見つめる事。その時の合間を創るには。
絵があることでわかる事。自分発見、新望感、美意識、冒険と挑戦、
眠っている今の自分を呼び覚ます。

■ゆとりの間と視角のおやつ

絵を選択することも楽しい事。
作家を知る事で、自分と共感できれば、それは、その時、その胸に決めた事であり、
心の奥に眠っていた
自分の知らない時を手に入れられるといった、形になる。

忙しく現実的な毎日の中に一つ、過ぎていくもゆとりある暮しの中に一つ。飾る。

部屋に絵を飾る。絵を必要とする事がある。絵を描く。絵を記念にする事。
絵画は美術館で楽しむ。画集を購入する。
絵はがきを贈る。気に入った絵。

画集を本棚へと並べるのは知識絵画で、好みいつまでも眺めようと飾るのは好きであるからだ。

表紙が気に入るが絵は高価であると、諦めきれずに画集という形で手に入れる人。
美術館へ行くのは探究心で、家庭、店鋪、オフィスとその場、その所に飾ってあるものは
その人の言葉に変わるものにもなるだろう。

好んだ絵画を飾るのは配信で、相手を癒し喜ばせるために飾る絵画は受信である。
共感を得ようと集めるのであるならば、日常の延長と、日々の消費、気持ちの浄化と

落ち着いたスペースに。


家族を持ったならば、家だけでは無く庭も必要でしょう。
「家庭」である事でゆとりの間はどんどん増えるず。

空間を歩くのは、誰?気付かずにあるゆとりの間を増やせば、人は考えるのだ。

■絵画を描くのは画家~画家が思う形と見る人の形~

ある一人の印象派画家、ある一人の抽象派画家。人の好みはさまざまで、その技法
の行程など眺めている人には解る事は無い。
絵を描き、その姿を映すものは完成された一枚の絵だ。
ゆとりの間として、考えさせる事で展示しようとするならば、ギャラリーに足を運びその空間で終わるでしょう。

その絵に興味を持った瞬間に、もう一つ欲しくなる事がある。
それは、一枚の絵と画家の姿である。

なんとなく気に入った、とりあえず欲しいから。で終わる事は実は無いのではないの
だろうか。
一点の絵を一人しか気に入らなかったのか、その絵は一枚しか無いものなのか。

知る事で欲しくなる事。理解出来るからこそ欲しいものである。
見る人に考えさせ、理解を得ようと思うならば、その一人の画家について絵とともに
述べてゆく事は沢山あり、何人もの画家がいて数多く絵画を並べられても、見る人には解らない。

「タイトル」だけの謎謎も魅惑的と人はそれぞれの思いを膨らませる事もあり、印象
派画家も抽象派画家も、見る物に難題を投げかけ、次の絵画へと筆を走らせる。

素晴らしい絵画であっても、その絵について知る事はかなり後になり、美術教科書に載っているのであれば
最高の画家であると、見る人はその時、その絵について考えることなど無いに等しい。

今、「生きる絵画」を望む人がいるのであれば、魅力は画家にもあると言う事だ。

■展覧会と理解者~選ばれ、感動し、と賞の重要性、一つでも理解された時、それは完成し
ている~

良いと言われれば良いのであり、総べてを求めるのはその先で、まだこれからの画家の未来である。
作品数と展示ラッシュの集大成は、その未来、熟練された達成後の姿となり、出来る事ならばその一つの理解で、その時、今の総てを見せる画家である事が喜ばれるのではないだろうか。
空間の使い方と創造された作品の無駄を無くす事。

一つの価値は「賞」であると、その絵画の意味と技法は言葉の詩となり見る者へ届けられる。
理解出来る事無く、購入だけされる絵画は、その報酬のみで形を変えられてしまうであろう。
「生きる絵画」を報酬のみで考えるのは間違いである。
理解はされず、消費するための絵画という形で、深くはないモノ。
飾る為に絵は描かれるのであるとすれば、何処にあることが良いのだろうか。
「生きる絵画」を見つけられれば、共に進み、自分にあるのだ。

「報酬」を得た段階でその場に絵画は無い。
画家から離れ作品は一人歩きになり、貴重な作品であれば再び訪れて
眺める事ができるのは、美術館という事になる。
多大な功績を讃えられ、理解を得た事で、その作品は自分の手から離れ、ゆとりの間も自身の場とは別の所となるのだ。

最高級なお持て成しとゆとりの間も違う訳で、できることならば絵画を「自分のもの」として持っている事。
もちろん最高級な優れたものに勝る事は無いが、自分でゆとりの間をつくる事で楽し
み癒しとその絵を個人で理解もし、その空間を自分の生活の中で作る事が日常には大事なのではないだろうか。

■絵画の未来~美しい術はいつまでも~

絵画本来の意味と自分への必要性があり理解者でなければ、絵画が良い意味で未来に
残る事は無い。

無ければ困ると、トイレットペーパーをまとめ買いするのとは訳が違うからである。
現在で、失われつつある消費者の行動としては、「自分の意識で買う」事。
情報の受け入れと探究心は別で情報が多いと「得をした」と思ってしまう事だ。

絵画を見て、その画家の事を知る事を「得」と考える者は少ないであろう。
個人的に必要であるから欲しくなる訳であるのだから、ばらまかれた情報とは別であ
る。
欲しいと思う絵画に出会い、自分の好むゆとりの間にその絵画を飾れる事が出来るよ
うになるまでには、見る人々も理解することが大事になる。

優れた技には人々を惹き付ける力がある。
説明等、わずらわしく思われる事も多いだろうが、その絵画の技量を伝えることは
あっても良いのではないだろうか。
行程では無く、完成度の高い作品にはわかりずらい表現も多い。
伝える事はリアルでは無い。
完成された作品をバラバラに解剖するのでは無く、完成された作品に対して優れた理解力が大事であると言う事だ。
その為の理解は、他の個人では出来ることでは無い。

その作家でなければ説明出来ない事もあるだろう。
作り手と理解者が一つになれば、伝言ゲームとはならずに済むのである。

背伸びをして得る絵画と生きる絵画。絵を必要とするのであれば、それは自由だ。

ゆとりの間と視角のおやつはそれぞれの楽しみと心にプラスできる事。


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ナニゴコロナシノ

                  トドノツマリハ


絵と文  牧野 ヒデミ


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